NPOピュアの藤田敦子です。ミスター介護保険と呼ばれている山崎史郎厚生労働省社会・援護局長のお話を伺いましたので、私なりにお話をまとめてみました。
山崎氏が厚労省に入省したのが、1978年。高齢化の波が日本へ押し寄せてきた時でした。その後、1990年代に介護保険制度に関わり、企画・施行・見直しと10年近く向き合ってきました。
オセロゲームのようだった介護保険成立
当時は、国民が介護に困っていて、誰も制度を作ることに反対しませんでした。でも、各論に入っていくと、反対意見が噴出しました。審議会を200回行い、朝から晩まで介護保険の問題点を考えつくし、1000人説明をして回りました。何度も、オセロの石が一斉に真っ黒になりましたが、ダメになりそうになると、市民団体が動き、現場や市町村もやっていこうという声があがっていきました。介護保険が成立したのは、「最初の段階で土台があった」ことだと言います。「介護保険を作り、介護を社会全体で支えていこう」という明確な考えがあったからこそ、法案後に起こった、「介護は家族が行うもの、保険料は取らない」という旋風が吹いても、オセロの石は、最後は真っ白になっていきました。
福祉・医療制度の設計に必要な「8の字」サイクル
30年近く厚生労働省で制度を作っていく中で、福祉・医療制度には2つの視点が必要だと山崎氏は指摘します。制度を考える時には、国全体の経済・社会システムの視点を持つ「鳥の目」が必要で、その一方で、支援を受ける人、支援をする人達の視点、現場と生活の視点である「蟻の目」が入らなければ、制度にならないと言います。また、どんなによくできた制度でも、実際に実施すると必ず問題が出てきます。一番の問題は、制度の排除、そして縦割りです。現場はこれを乗り越えようと様々な提案や取り組みが出てきますが、個人的な問題になってしまい、先生によってやり方が違い、前に進まなくなってきます。その中で、もう一度制度を見直していくことができる制度は、回っていきます。この「制度(政策)」と「現場(生活)」を結ぶことを「8の字」サイクルと言っています。
ジャーナリストの果たす役割
介護保険は最初から5年後見直しを入れました。今までに見直しを入れる考えがなかったので、通すのが大変でした。医療と福祉は、人が人を支えるものだから、社会も、現場も変わっていきます。制度ができて、実際に動いていくのに時間軸があり、数十年かかるのは当たり前のことです。やってみなければわからないこともあり、だからこそ見直しが必要です。そして、現場と国民の間、両者をつないでいく、回していくのがジャーナリストの役割だと思います。
内閣府参与だった湯浅誠さんが「霞が関と永田町に関わって初めて、そのブラックボックスの内部が調整と決定の現場であり、自分がその当事者になったことを知った」と書かれています(社会運動の立つ位置,世界2012.3)。「こっち側」と「あっち側」という考え方は、「8の字サイクル」になっていません。この制度(政策)と現場(生活)との交差点をつなぐ「プラットホーム」は、社会政策上きわめて重要なことです。
根本に変えるは、地道に積み重ねをしていくこと
官僚主義にはいいところもあるが、人事異動があり、パッションとか作った時の意識が伝わっていきません。学問は大事なことで、官僚はベースにして制度にしていくことはできますが、本質やケアは研究していかないとできません。それがないと受け皿は間違った方向へ行ってしまいます。福祉・医療の制度とサービスは時間軸がずれます。制度を作っても、サービスが追い付かないことがあります。特養の多床室の問題も、一旦多床室を作ったら、30年間、負の遺産になってしまいます。30年の利用者のことを考えなくてはいけません。地方はがんばりましたが、都市部は高齢者が増えたのに十分考えてこなかったので、これから考えても20年はかかります。深い政策を考えていかないといけません。現状は、10年20年前の努力の結果でもあります。
民主主義というのは、全部違う国民がいるということです。反対意見に納得してもらうために、一人一人に説明をしていくことのほうが早いと私は考えます。
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3時間近くお聞きしたお話をまとめるのは無謀ですが、私の強く印象に残った
お話をまとめてみました。介護保険ができたことは奇跡であり、それを動かし
ていったのは、情熱と地道な努力の結果ということを知りました。
「私たちの街は、私たち市民が作る」そこが大事だと再認識しました。がん患者
が安心して最後まで暮らし続けられる街を作るために、NPO法人として
がんばろうと、意を強くしました。がん末期の介護保険問題を追っていきます。
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