2012年11月30日金曜日

【震災】岩手県被災地、1年半経過し復興半ば

NPO法人ピュアの藤田敦子です。岩手県盛岡市で講演した翌日平成24年11月26日に、盛岡駅から宮古市へ行き、そこから山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、(気仙沼市)、一関駅と、三陸沖被災地へ行ってきました。盛岡からバスで宮古まで2時間もかかり、そこから一関駅まで9時間かかりました。山間地域が多く、新幹線からの交通の便がとても悪く、復興の妨げになっているように感じました。

宮古市で見たチリ地震津波の後に建てられた記念碑「 地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」 隣の碑にも、「大地震の後には津波が来る。大地震があったら高い所に集れ」とある。 被災地でで見たものは、がれきは、処理をする場所へ片付けられていましたが、ところどころに廃墟となっている建物が残り、土台が家々がかってあったことをうかがわせていました。少しずつ復興へ向けた足がかりが進んでいるように見える反面、広い土地がなく、小さな集落で仮設住宅が並んでいました。

ある所では後背地の市街地は残存し、その中に仮設住宅が並んでいて、取り残されていく人たち、復興の波に乗れない人たちが出る予感を強く感じました。岩手県は県立病院が多く、沿岸地域に建てられていたため、山田病院、大槌病院、高田病院は全壊になったところもありました。

また壊滅的な被害を受けた市町村には、いまだに建築物がなく、都市計画という大きな難題が突きつけられているように思えました。陸前高田市は市役所も含め市街地すべてがなくなっていました。すぐ目の前に海があり、この場所に再び建てることは考えられず、さりとて、同じような広さの土地があるとは思えませんでした。

がれきの山は仕分けが行われていますが、すべてを岩手県内で処理することができず、他県に住む人たちの理解がなければ、どんどん復興が遅れていくばかりです。大きながれきの山がいくつもありました。岩手県の沿岸地域には家を建てたりできる土地が少ないので、遠くに住む私たちが応援できることは負担を減らすことだと思います。

また、これからお歳暮や年末年始の買い物の時期になります。ボランティアとして入り手足となって動くことができない人にも、岩手県を応援する手立てはあると思います。各地で、プレハブなど仮施設で、復興食堂や物産センターが作られ、牡蠣や帆立、うに、いくらなど魚介類が店先に並び、販売されていました。お昼を復興食堂の三陸定食にしましたが、これだけ豪華で1500円でした。

釜石で、津波てんでんこの話を聞きました。この地域は明治29年、昭和8年の三陸地震津波、昭和35年のチリ地震津波と100年の間に3回も津波があったところです。それで、大地震が来たら、家族もちゃんと逃げていると思い、高台に逃げるようにという言い伝えがあります。
釜石の奇跡と呼ばれた中学生の話に泣けました。以前は高台にあったのに、中学校、小学校、幼稚園が平地に建てられ、そこから高台に向けて、中学生がみんなを誘導し逃げ切ったと言います。先生方もがんばりました。なのに、大人は、平地に作られた地区防災センター(公民館機能あり)で防災訓練をしたばかりに、251人がそこに集まり、助かったのはわずか30人だったと言います。センターの中に入り、何故こんな場所に建てたの?何故ここに避難したの?と本当に悲しかったです。「逃げる文化」をしっかりと根付かせる必要があります。

一関へ行く途中、宮城県気仙沼に入りました。巨大は船がまた陸の上にあり、建物も片付けられていませんでした。ここも大きな被害にあった市として有名ですね。でも気仙沼は、駅の周辺の商店街はそのまま残っており、漁師の住む沿岸との落差がとても大きかったです。

大きな地震だったとはいえ通常の活気がある内陸地と交通の便が悪い沿岸地域。もともと、医師不足もあり、これから高齢者をどのように支えていくのか、課題も大きいと感じました。東京から新幹線で3時間かかり、そこから2時間かかって沿岸に着くと言う悪循環もあり、ともすると、宮城県の陰に隠れてしまう恐れがあります。岩手を忘れないで、ずっと応援し続けたいと思っています。再び活気のあるまちへ願いを込めて!

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