2012年8月1日水曜日

尊厳死からコミュニティケアへ ケアタウン小平 山崎章郎さん

藤田敦子 大学院モードです。今回は長年、聖ヨハネ会桜町病院ホスピスで、終末期医療やホスピスケアを届けてきた山崎章郎さんに、新たに「ケアタウン小平」を作り、コミュニティケアを提供したいきさつなどをお伺いしました。


◎「尊厳死」を言わなくても、患者の意思は尊重される

小平にある「ケアタウン小平」は、21戸の賃貸住居「いっぷく荘」に隣接し、往診する医師、訪問看護師、ヘルパー事業所があり、デイサービス、子育て支援、ボランティアがいる複合施設。そこは、長い間、がん患者に終末期ケアを提供する「桜町ホスピス」に従事していた山崎医師や長谷さんたちの思いがいっぱい積もった場所だ。「ホスピスは専門家の提供にゆだねるが、在宅ケアは家族に達成感があり、一体感がある」と山崎氏は語る。そう、そこに住む人たちみんなが安心と幸せと自分の役割を持てる場所-それがケアタウン小平なのだろう。
以前、ホスピスにリビングウィル(本人の意思書)を持って患者さんが来られた時、「ここは『リビングウィル(意思書)』を提出しなくても、たえず、ご本人の意思を確認しながらしていきますから、大丈夫ですよ」と優しく山崎さんが答えて、患者さんは安心したという。気持ちは絶えず揺れていくから、その都度、本人の思いをチームで聴いて、疑問に答えて、そして家族を支えていくことが、ホスピス・緩和ケアの基本だ。
がん患者だけに提供されていたホスピス・緩和ケアの理念が、在宅に拠点を設けることで、認知症など誰にでも提供できるケアになった。安心して暮らせるコミュニティは、「最期まで、人権を守られ、尊厳と自立(自律)をもって暮らせることを保障する」コミュニティである。
もしかして、諸外国で提供されているホスピス・緩和ケアって、こういう形なのかもしれないな。キュアからケアへ―ホスピスからコミュニティケアへ。ケアを提供するチームに、ホスピスマインドや緩和ケア技術があることが、一番大事だから、私たちは、「もっと地域の中でホスピス・緩和ケアの理念」を訴えていかなくてはいけないのだ。
愛する人たちに囲まれて、自分がいたいと思える場所で、人生の幕を精いっぱい駆け抜けることができたら、どんなに幸せだろう。私たち市民が思うのは、「死」ばかりを見つめている日本の「尊厳死」でなく、「死ぬまで誇りを持って暮らす」ことを保障してほしいのだ。

◎ホスピスケアとの出会い

山崎氏は、高校3年生の時に、サリドマイドの事件にスウェーデンから医師が来日したことを伝えるテレビを偶然観て、建築家の夢を捨て、医学の道に進むことにした。2年浪人して千葉大学に入学したが、時は安田講堂事件が起こり、博士号を取らない運動も起こっていた。研究の道に挫折を感じて、大学病院ではなく、地域の病院で働くことに決め、その過程の中でしばらく船員としてのんびり働くことに決めた。捕鯨船に乗っていた1983年に、運命を変えた「死ぬ瞬間」(E.キュブラー・ロス)に出会う。『死ぬ瞬間』では、当時行っていた蘇生術をせず、家族に囲まれて死ぬことができることが書かれていた。
1985年、日本に戻った山崎氏は、千葉県の病院へ移り、精力的に仕事をこなしながら、外科病棟の看護師と一緒に『八日市場ターミナルケア研究会』を立ち上げた。1カ月に1回の勉強会やグループ討議を行い、医療者だけでなく、いろいろな人の発想が必要と感じ、看護学校に課外授業を行ったりもした。時を同じく、アルフォンス・デーケン氏が『死の準備教育』を唱えていた。
1986年、柏木哲夫氏が「ホスピスケア」に関する著書を出され、山崎氏は直感的に「これだ!」とひらめき、朝日新聞に「もっと多くのホスピスを」と論壇記事を投稿した。そして1988年、デーケン氏らと一緒に、アメリカのキューバー・ロス氏を訪ね、「安楽死を望まれた場合、どうしたらいいのか」を聞き、ロス氏は「安楽死を望むのは、皆さんのケアが少ないから」と答えている。ホスピスケアには、身体的、精神的、社会的苦痛とスピリチュアルペインが存在する。当時、スピリチュアルペインを「宗教的苦痛」と訳されていたが、「他の3つをしっかりやれば、自然とストンと落ち、スピリチュアルペインも解消できる」と教えてくれた。
ロス氏の手作りによる歓迎の宴で、クッキーも出され、山崎氏は、「このクッキーと南極の氷は、冷凍庫に入っている。最期の時に、この二つを使おうと大事に取っている」と話した。このことは、ロス氏とホスピスケアと出会いが、山崎氏にとってどれほど衝撃的な出来事だったかが伺えるエピソードであろう。

◎病院で死ぬということを発刊してから

事務をやって下さっていた鈴木さんが、30代で乳がんになり、同じく40代で肺がんになった方とそれぞれの思いを語りあったものを本に出来ないかと出版社に掛け合ったところ、主婦の友編集者木村さんから、「自分のことを書いてみないか」と持ちかけられ、何度も何度も書き直しをし、書いたものを1カ月熟成させ、そして感情を消して、原稿に仕上げていく作業をしていった。それが、ベストセラーになった『病院で死ぬということ』だった。本を出したことで教授にご迷惑をおかけしないか心配だったが、教授から「いい本を書いた」と『公認』を頂き、2刷からあとがきに寄せて頂いた。
その後、山崎氏は、聖ヨハネ会桜町病院ホスピスへ移り、日本のがん医療を変えていき、ホスピス緩和ケアを全国に広める啓蒙活動や研究を次から次に発表していった。ただ、ホスピス緩和ケアを極めれば極めるほど、何故、がん患者(エイズも対象になっている)にしか提供できないのか、診療報酬がつくようになってホスピスの理念が置き去りにされて、ボランティもいない緩和ケア病棟が作られていくことに疑問を感じ始めていった。
そんな時、大熊由紀子さんに「ホスピスの中だけでいいんですか?」と言われ、大熊さんと一緒にデンマークやケアタウン鷹巣へ行くことで、もやもやしていた気持ちが、一気に晴れ、ケアタウン小平の構想になったと言う。このケアタウン小平の仕組みで、「新ホスピス宣言」が日本全国に生まれてほしい。

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